MSFC『多文化共生チーム』第3回インタビュー

2017.12.20

こんにちは!
MSFC『多文化共生チーム』です。

2017年12月 9日に、第3回目の取材を行いました。
今回は、三重大学医学部で技術補佐員をされている、岡田アムフォンさんです。

 

.................................................................................................................................................................................

名 前: 岡田 アムフォン

性 別: 女性

出身国: ラオス

現在の勤務先: 三重大学医学部 技術補佐員

Eメール: amphone@clin.medic.mie-u.ac.jp

.................................................................................................................................................................................

インタビュー(2017年12月 9日)

Q.日本に来た経緯を教えてください。

A. 日本に来た直接の理由は、日本人の夫と結婚したからですが、夫と知り合ったのはラオスに住んでいる時でした。
私は当時ラオスの大学の学生で、夫が仕事でラオスに来ている時に知り合いました。
最終的に日本に来たのは2000年でした。
日本に来て仕事を始めてからはなかなかラオスに帰る機会はなくて、最後に帰ったのは5年前くらいです。

Q.ご主人が日本に帰ってきた時に一緒に日本に来たのですか。

A. いいえ、私はラオスでメディカルドクターの資格を取った後、アメリカのハワイ大学で4年間、臨床検査の勉強をして
いましたから、その時は主人とは離れ離れでした。
私がハワイ大学を卒業した後、夫が仕事でシンガポールに行くことになりましたから、それで、私も夫と一緒にシン
ガポールに3年間住みました。
その後、2000年に来日したのです。
日本に来てから、日本の永住権を取りました。
すぐに取れましたが、初めは永住権を毎年更新しなければいけませんでした。
その後何年か経つと、3年ごとの更新となり、その後もっとゆるやかになりました。

Q.日本に来る前から日本語を勉強していましたか。

A. ハワイ大学にいる時に少しだけ、2学期くらい初級日本語を勉強しましたが、日本に来た時はほとんど話せませんでした。
ですから、日本で生活する中で日本語を覚えていきました。
私には当時3歳と0歳の子供がいましたが、子供にラオス語を教える余裕はありません
でした。
私は日本語を覚えようと思って、できるだけいつも日本語を話すようにしていましたから。
でも夫はラオス語と英語が話せますから、夫とは今も日本語、英語、ラオス語の三つの言葉を使ってコミュニケー
ションをしています。
職場ではいつも日本語を話していますが、英語の論文などを読む機会も多いです。

Q.どうやって今の仕事を見つけましたか。

A.

日本に来た頃、手が痛くなって、三重大学の大学病院に治療に来ました。
その時に、お医者さんに「子供がもう少し大きくなったら仕事がしたい」と話していたら、そのお医者さんが知ってい
る別の先生が助手を探していました。
それで、私は子供が保育園に入学してから、そのお医者さんの技術補佐員としての仕事が得られました。
技術補佐員の仕事というのは色々ありますが、お医者さんや研究者さんの実験を手伝ったりすることなどです。
例えば、先生が実験をしますね。でも、思うような結果が出なかったとします。すると、もう一度、設定温度を変え
たりして同じ実験をします。
その二回目以降の実験を私たちが先生の代わりにしたりするわけです。

  

Q.日本に住みたいと思っている三重大学の留学生にアドバイスはありますか。

A. そうですね、、、、、、。私が日本に来て一番つらかったのは、日本語が分からなかったことです。
日本に住みたいのなら、日本語の勉強をしっかりしなければいけません。これが一番厳しいところです。
また、日本の文化や働き方を学ぶことです。頑張ってください。