MSFC『多文化共生チーム』 第10回インタビュー

2018. 9.13

こんにちは!
MSFC『多文化共生チーム』です。

2018年 9月 6日に、第10回目の取材を行いました。
三重県国際交流財団の、上原ジャンカルロさんです。

 

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名前: 上原ジャンカルロ

出身国: ペルー

年齢:35歳

勤務先:三重県国際交流財団(http://www.mief.or.jp

メール: gianuehara@mief.or.jp

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インタビュー(2018年9月6日)

Q.いつ日本に来ましたか。

A.

私は日系三世のペルー人としてペルーに生まれましたが、1993年、10歳の時に父の仕事の都合で家族揃って日本に来て、2年半の間長野県に住んだ後、ペルーに帰りました。
その後ずっとペルーに住み、ペルーの大学で5年間貿易を専門に勉強し(ペルーの学校は、小学校6年、中学校5年、大学5年の6・5・5制)、そして貿易関係の会社に就職しました。
しかし、2006年に、子供の時に長野県でお世話になった学校の先生と連絡をとり、その先生を訪ねたりして日本とペルーを行ったり来たりしました。
その時に、自分が子供の時に覚えた日本語がまだ通じると分かって、日本で働いてみたいと思い、2006年の末に日本に来ました。
それ以来ずっと日本に住んでいます。

Q.子供の時に日本に住んでいたということは、その時からずっと日本語には不自由しなかったということですか。

A.

いえ。確かに子供の時に日本語を覚えましたが、それでも周りの日本人の子供に比べたら、私の当時の日本語能力はその半分くらいだったと思います。
私は小学校6年〜中学校1年にかけて長野県に住んでいたのですが、中学校1年になっても、日本語教室に通っていました。
ですから大人になってもう一度日本に来た後も日本語の勉強を続けました。
それに当時の私の日本語は子供が話すような日本語でしたから、仕事の場面で使えるような日本語を覚えなければなりませんでした。
2006年に再来日してから3年間公文で日本語を勉強して、その一年目に日本語能力試験の3級、二年目に2級、三年目に1級を取りました。

Q.2006年に来日した後、どうやって仕事を見つけたのですか。

A.

私は日系人ですので定住ビザを取って来日しました(現在は永住資格を持っています)。
ですから、就ける仕事の種類については特に制限はありませんでしたので、初めはアルバイトなどをして過ごしていたのですが、外国人の友達の紹介で、滋賀県にあるPanasonicのテレビを作ったりする工場で通訳の仕事に就くことが出来て、そこで2011年まで5年間働きました。
その後、2011年から2013年までの2年間は滋賀県湖南市の国際交流協会で相談員として働くことになりましたが、この仕事はハローワークで見つけました。
この国際交流協会で働いている時に、日本人の友人から、三重県国際交流財団が専門員を募集しているという話を教えてもらい、そしてまたハローワークに行ってその募集情報を入手して応募し、2013年に採用されました。
こういう国際交流関係の団体の求人は、最近はほとんどハローワークに出ていると思います。

Q.今は三重県国際交流財団で、どんな仕事をしているのですか。

A.

私は専門員(International Exchange Planner)として働いているのですが、仕事の内容としては、簡単に言うと人材育成です。
例えば医療現場での通訳者や災害時の通訳者・サポーターを育成する事業を企画・実施しています。
医療通訳者を育成する研修の他、通訳者を一定の期間、病院に配置する事業も行っています。
(インターンシップに似ているかも知れません)。
その際にかかる費用はこちらが負担します。
その後、病院側が、通訳を雇うことにメリットがあると判断すれば、改めて病院が通訳者と雇用契約を結ぶということになります。

Q.ご家族について教えてください。

A.

私は妻がブラジル人ですが、日本で知り合って結婚しました。
ですから、私はスペイン語と日本語の他に、ポルトガル語も話せますし、家庭内では基本的にはポルトガル語で会話をしています。
あと、私は一応英語も話せるのですが、ペルーで仕事をしている時に比べたら大分下手になってしまいましたね(笑)。
それから、うちには14歳と1歳半の子供がいます。
子供は日本で生まれ育ったので日本語はもちろん話せますが、スペイン語とポルトガル語も話せます。
さっきも言った通り、家の中ではポルトガル語で会話していますが、私の親戚がペルーから日本に遊びに来た時は、子供はスペイン語で私の親戚と話しています。
私の親戚は、2年に1回くらいペルーから日本に来るのですが、私の方はもう10年くらいペルーに帰っていませんね。
私はもう生活基盤が日本にありますし、滋賀県で家も買っちゃいましたし(笑)、ずっと日本に住み続けると思います。
(注:上原ジャンカルロさんは滋賀県から三重県に通勤しています。)

Q.日本に住んでいて困ったことはありましたか。

A.

そうですね。
まず子供の時に日本に住んでいた時の話ですが、実は一緒にペルーから日本に来ていた弟がちょっと深刻な病気になったんです。
その時に、私が家族と医者の方の間に入ってスペイン語と日本語の通訳をしたのですが、うまく通じませんでした。
実はこの弟の病気もあって2年半でペルーに帰ってしまったのですが、弟が病気になってなければもっと長く日本に住んでいたと思います。
でも、ペルーに帰ると、弟の病気は一ヶ月くらいで治りました。
日本にいた時に弟の病気が良くならなかったのは、いろいろな理由があったと思いますが、私の日本語がうまく医者の方に通じなかったのも原因の一つかと思って辛かったです。
それから、2006年に日本に来て働き始めた頃の話ですが、正社員じゃなかったということもあったのか、保険などについて雇用主から全然説明がなくて、私もよく分からなかったものですから、保険に入っていませんでした。
今思うと、労働者として享受できるはずの権利を与えられていなかったと思います。
仕事の時間も1日12時間と長く、土曜日も働いていました。
ただ、今三重県の工場で働いている外国人の方々も、1日12時間働いている人はたくさんいますけどね。
あとはやはり通訳の仕事で、色々失敗しました。
間違った通訳をして工場のラインを止めてしまったこともありますが、その時はかなり叱られました。

Q.日本で就職したいと思っている三重大学の留学生にアドバイスはありますか。

A.

仕事のハードルが高そうに見えても、とにかくやってみることが大切だと思います。
もちろん失敗することもあるかもしれませんが、そういう経験から学ぶこともたくさんあります。
その時点での自分の能力が足らなかったとしても、やっているうちに色々なことを学んで、自分の能力が追いついて来ます。
私自身、滋賀県の工場で通訳をしていた時は色々失敗をしましたし、今思い返せばあの当時の自分の日本語能力でよく通訳なんていう仕事をやっていたなと思いますが、そういう経験を通じてたくさんのことを学ぶことができました。
私は日本語能力試験の1級を取りましたが、1級を持っていたら日本語は大丈夫ということではなく、実際に仕事をしながら学び続けなければなりません。
私は、今でも日本語で文書を作成する時は、適切な表現をインターネットで調べなければならなかったりしますし、日本人の職員の方に間違いを指摘されたりします。
でも間違いを指摘されることを嫌だと思わず、自分のためだと思うべきです。
外国人であるがゆえに我慢しなければいけないようなこともあるかもしれませんが、それを乗り越えれば、周りの方々がサポートしてくれます。
ですから、三重大学の留学生の皆さんにも、失敗を恐れずに、仕事に挑戦してほしいと思います。