MSFC『多文化共生チーム』第1回インタビュー

2017. 7.19

こんにちは!
MSFC『多文化共生チーム』です。

6月29日に、三重県で働く外国人の方の第1回取材を行いました。
今回は初回ということで、身近にいる存在、三重大学人文学部の朴先生を取材しました。

 

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名 前: 朴 恵淑(ぱく けいしゅく)
出身国: 韓国
現在の勤務先: 三重大学人文学部(教授)
Eメール: park@human.mie-u.ac.jp
ホームページ: http://park-eco.jp

専門分野:環境地理学・大気汚染・地球温暖化・UNESCO ESD

 

 歴:
1983年 来日...筑波大学大学院に入学
1987年 博士号取得(地理学・水文学専攻 理学博士)
1987年 筑波大学に教員として着任
1988年 米国ヒューストン大学にポスドクとして在籍
1991年 帰日...筑波大学に外国人研究者として在籍
1993年 三菱化学生命科学研究所に特別研究員として在籍
1995年 三重大学に助教授として着任
2000年 三重大学教授に着任(「四日市公害から学ぶ『四日市学』」を創設)

朴先生

  

受 賞:
2008531日  韓国梨花女子大学校創立122周年及び総同窓会創立100周年記念「輝かしい梨花人」受賞
2012107日  第3回「津田梅子賞」受賞
20121212日 平成24年度「地球温暖化防止活動環境大臣賞」受賞
20151029日 第21回「日韓国際環境賞」受賞

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インタビュー(2017629日)

Q. 日本に来たきっかけを教えてください。

A.

韓国で地理学、特に大気汚染に関する研究で修士号を取得した後、韓国梨花女子大学校師範大学で助教をしながら、アメリカかヨーロッパの大学に進学することを考えていました。当時の韓国では、アメリカやヨーロッパでの学歴が重要視される傾向があったため、日本に来るとは夢にも思っていませんでした。ただ、父親や親戚が日本で買ってくれたお土産(ウォークマンなど)が嬉しかったのは覚えています。

当時日本はバブル景気で、日本政府の留学生10万人計画により(当時日本にいる外国人留学生は1万人程度でした)、文部科学省から奨学金がもらえることを知りました。また、筑波大学では英語でクラスが開講されていて、博士論文も英語で書いてもいいと聞きました。(実はクラスはほとんど日本語で行われていると来日後に分かったのですが。)数か月間日本語を勉強したのち、日本の筑波大学大学院地球科学研究科に入学することができました。

 

Q. 初めて日本に留学した時の生活について教えてください。

A.

入学してはじめに筑波大学の日本語クラスレベル分けテストを受けたのですが、最下位レベルの判定を受けました。それ以来、日本語クラスと大学院での学習のため、24時間体制で死ぬかと思うほど勉強しました。同居していた同じ研究科の日本人学生チューターに日本語を教わったり、日本の漫画を読んだり小学校 1年生用のすべての科目の教科書を買ったりして勉強しました。その結果、来日してから半年で、最高レベルの日本語クラスに移れました。また、雑誌やテレビを通じて、日本人の友達とコミュニケーションをとっていました。「8時だヨ!全員集合」には興味が湧きませんでしたが、「おしん」には心を動かされました。なんだか60年代の韓国と似ているような気がしました。

日本での生活の中では、幸い、外国人に対する差別というものは感じませんでした。でも時にはネガティブなことも感じました。例えば、私は、日本人学生が全力で勉強していない、「No.1」になろうとしていないと感じました。韓国の競争社会は激しいですから、それもあってか、日本人の「マジョリティーの中にいることで居心地がいいと感じる」ような文化に、違和感を感じました。三重大学生を含め、日本人学生には、もっとプライドを持って頑張って欲しいと思っています。

また、当時から筑波大学には世界から留学生がたくさん来ていました。おそらく500人ほどの留学生がいたと思います。留学生の家族を受け入れられる寮も完備していましたし、留学生の家族が英語を教えたり、近くのイタリアンレストランに留学生が集まったりと、とても多文化な環境だったと思います。

大学院時代の研究に関してですが、筑波大学の近隣には、自分の専門である環境研究に関連する研究機関がたくさんあり、研究環境としては恵まれていたと思います。1985年につくば万博があったのですが、万博開催の会場建設のために、周辺の土地を整備することになり、この機会を利用して、大気汚染に関する論文を作成することを教授に勧められました。様々な教授に協力を依頼して、30名ほどの協力者の助けもあって、この年に博士論文がほぼ完成しました。思いのほか早く博士論文ができたのですが、その後1987年に博士課程を修了するまで、アメリカや日本全国を回り、研究発表をするなどして、コミュニケーション力とプレゼン力を養ったり、ネットワークを作ったりすることができました。

 

Q. 博士号をとって最初の留学が終わった後、どうされましたか。

A. このころ、日本における留学生実態調査により、日本で就職する留学生の少なさが明らかになりました。これは外国人差別ではないかという論調が高まり、その影響もあってか、私は筑波大学の留学生として初めて筑波大学教員になることができました。ちょうどその時、筑波大学で日本初の環境科学研究科ができ、そこに所属しました。その後筑波大学を休職して、ポスドクとして1988年からヒューストン大学に行きました。そこで、地球温暖化に関するヒューストン大学、NASANational Aeronautics and Space Administration; 米国航空宇宙局)、EPAEnvironmental Protection Agency; 米国環境保護庁)の共同プロジェクトのプロジェクトリーダーをつとさめさせていただきました。その後、1991年に日本に戻って、筑波大学の外国人研究者を勤めた後、1993年から三菱化学生命科学研究所で勤務していたのですが、1995年に、四日市公害の研究をするために三重大学に移りました。

 

Q. ビザはどのようなものを取得していますか。

A. はじめは留学ビザでしたが、博士課程修了見込みの時点で留学ビザから就業ビザに切り替え、筑波大学に就職しました。でも、25年ほど前に日本の永住権を取得しました。継続して10年ほど日本に住んでいることが条件でしたが、特に手続きが難しいとは感じませんでした。

 

Q. ご家族はどのようにされていますか?

A. 家族はみな独立しています。子供はアメリカの大学留学の後、東京都で働いています。

 

Q. 今後はどのようにするおつもりですか。

A. 三重県に来て22年になりますが、私の「四日市学」などの研究は、日本への恩返しとしてやっています。日本語も話せないまま来日して以来、たくさんの人々に助けられましたから。外国人の目から見て「すごい」と思えるような、でも日本人がすごいと気づいていないことを気づいてもらえるよう、研究を続けたいと思います。私の名前ですが、名字の朴は韓国語読みの"ぱく"にし、名前は日本語読みの"けいしゅく"と通しているのも、私のアイデンティティーを日韓のちょうど真ん中に置き、中立的な立場から両国の長所や短所をしっかり捉え、私だからこそできる日韓の発展に寄与したいと思っているからです。今後は、三重の国際化や人材育成に寄与できればと願っています。

 

Q. 最後に、留学生に対して何かメッセージはありますか。

A. 一番言いたいことは、一生懸命勉強して欲しいということです。学問はもちろんですが、自分の専門分野の他に、例えば日本の文化や歴史についても勉強すべきだと思います。また、同じ国出身の人で固まらず、違う国の友達をたくさん作ることは、一生の宝物を得たことになりますし、多様性(ダイバーシティー)社会を創る近道を築くこととなります。