MSFC 『多文化共生チーム』第36回インタビュー

MSFC 『多文化共生チーム』第36回インタビュー
こんにちは!
MSFC『多文化共生チーム』です。
2021年9月7日に、第36回目の取材を行いました。
今回は、三重大学工学研究科を修了して西松建設に就職したパラミさんです。

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名前:パラミ・ポンマハーサイ

出身国:ラオス

性別:男性

勤務先(予定):西松建設(https://www.nishimatsu.co.jp/

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インタビュー(2021年9月7日)
 

Q.いつ、日本に来られましたか。

A.

 2010年10月に日本に来て、職業能力開発総合大学校という大学に入りました。初めの半年間はその大学で日本語のクラスだけ受けていて、正式に大学生として入学したのは2011年の4月です。私は日本に来る前にラオスの大学の建築学科に入学して建築の勉強をしていたのですが、その大学付属のラオス日本人材育成センターというところで日本語の勉強もしていました。『みんなの日本語』という教科書を使って8ヶ月間日本語を勉強しましたので、「私は大学に行きます」とか「ご飯を食べました」というくらいの基本的な文は話せるようになりました。実は私はいずれ日本の大学に入ろうと思っていたのでラオスの大学で過ごした期間は建築の勉強を兼ねて日本に留学する準備期間のようなものでした。結局、ラオスの大学で一年間過ごした後、日本に来ました。

 

Q.どうして日本に来たいと思ったのですか。

A.

 日本に来るという考えは自分の意思で決めたというよりも、周りの人の影響が大きかったですね。まず、ラオスでは、ある程度勉強のできる人は、ラオスよりも学問的なレベルの高い海外で勉強している人が多いです。その中で、私が日本に行こうと思ったのは、もともと日本にはいい印象を持っていましたし、私の母親も日本と関わる仕事をしていたので、母から情報を得られたこともあって、日本に留学することを決めました。

 

Q.びっくりするほど日本語が上手ですが、日本語以外にも話せる言語はありますか。

A.

 母国語のラオス語と、それから一応英語とタイ語も話せます。タイ語は少しラオス語と似ています。日本語は、今は大分話せるようになりましたが、日本に来て初めの1年か2年くらいは困ることもよくありました。例えば日本人の学生と話していても、向こうが若者言葉を話したりすると分からなくなったりして、自分の返事が合っているのか間違っているのも定かではありませんでした。向こうに悪意はなくても、自分の不自然な日本語を笑われたりすると話せなくなってしまったりしました。私の性格もあるかもしれませんが、なかなか日本人に話す勇気が持てなかったです。また、例えばマクドナルドに行っても、単品メニューとかセットメニューとかが難しくて、何かを注文しても、「サイドメニューはどうしますか?」「飲み物は?」と次々と聞かれるので困りました。

 

Q.大学の授業の日本語は理解できましたか。

A.

 正直、2年生の前半くらいまでは授業の内容を100%理解できてはいなかったと思います。数学とか化学の授業は数式や図を使うので比較的理解しやすかったのですが、建築史とか建築計画などの授業は苦戦しました。また、大学の授業以外に、留学生は日本語のクラスを受講することが必須だったので日本語の勉強はずっと続けていました。2011年の夏に日本語能力試験(JLPT)のN2に、2013年にはN1に合格したのですが、それでも私の日本語はまだまだ完璧ではないと思います。私は2015年に職業能力開発総合大学校を卒業した後、同じ年の10月に三重大学の工学研究科の修士課程に入り、2020年9月に博士課程を修了したのですが、博士論文を書いたり研究論文を書いたりした時も、いつも日本人に日本語をチェックしてもらっていました。

 

Q.日本での就職活動は順調でしたか。

A.

 私は周りの日本人の学生と同じタイミングで就職活動を始めて、マイナビやリクナビに登録したり会社説明会にも少し出たりしていたのですが、実はラオスに帰ろうという気持ちの方が大きかったのです。ですから、日本での就職活動はすぐにやめてしまいました。でも、卒業する直前に、ラオスに帰ってもすぐに仕事が見つかるかどうか分からないと考え始めて、迷っていました。その時に、大学院の指導教員の先生に、卒業後も少し研究室に残って補佐員をすることを提案していただいて、半年間三重大学に残ることにしました。補佐員をしている間に、日本とラオスでの就職先を探していたのですが、インターネットを使ってもラオスの就職情報はなかなか集まりませんでした。日本での就職に関しては、建設関係の会社にも応募しましたし、また大学教員の募集にも2回応募しました。大学教員の応募で、一つの大学は面接まで行ったのですが、結局いずれも不採用になりました。

 

Q.最終的に、今お勤めの会社に内定をもらったのですね。

A.

 はい。西松建設という会社の技術研究所というところでお仕事をさせていただいています。特にコンクリートの研究などをしています。この会社には、実はラオスの高校時代の友人が勤めていて、私は就職活動中に、その友人に連絡して、人事部と繋いでもらいました。それが2021年の2月だったのですが、まず履歴書を送ってくださいと言われたので送ったところ、1週間後に面接をしていただけることになりました。その面接のまた1週間後、この会社に就職する意思を確認する電話をいただき、内定をいただくことができました。今年の5月に入社したのですが、コロナ禍の影響で、ここしばらくはほとんど100%テレワークをしている状態です。私は個人的には、出社した方がモチベーションが上がるので、早くコロナが収まって、出社できるようになってほしいと思います。

 

Q.パラミさんが日本に住んでいることについて、母国のご家族はどう思っておられますか。

A.

 そうですね。やはり帰ってきて欲しいような気がしますし、実際にそう言われたこともあります。両親の希望としては、私の専門分野に拘らなくても、例えば日本語能力を生かした仕事をするとかして、ラオスで暮らしてほしいと思っているようです。でも、私が日本で住むことに強く反対しているという訳ではなくて、5年や10年のスパンで考えて、日本で仕事をすることも私にとっていい経験だと言ってくれています。両親のスタンスとしては、私が日本に住み続けることになっても理解するし、私がラオスに帰ることになっても歓迎するよ、という感じです。私自身は、今後ずっと日本に住み続けるかどうか、はっきりとは分かりません。でも、給料は日本の方がいいし、それに自分の将来を想像した時に、自分が活躍できる可能性を追求するなら、日本にいた方がいいのかなという気もしています。

 

Q.日本に来てからもう10年以上が立つと思うのですが、もう日本での生活に困ることはありませんか。

A.

 あまり困ることはありませんが、もしあるとしたら、、、やはり、日本社会は細かくて、少しでもミスをしたら信頼を失ってしまうような雰囲気を感じます。そういうことを考えると、私は自分の性格上、この日本社会の中ではまだまだ甘いのかなという気もします。

 

Q.最後に、将来日本で就職したいと思っている外国人留学生の皆さんにアドバイスはありますか。

A.

 私個人の考えでは、就職には情報が大事で、特に先輩などから得られる情報が大事だと思います。外国人留学生の場合、日本人の知り合いが少ないと、就職情報はインターネットを使って収集するのが中心になると思うのですが、実際に行動すると、ネットでは分からないことが出てきます。だから、自分の周りにいる人から、直接話を聞いて情報を得ることが大事だと思います。